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なぜ文系の人は理系がわからないのか

なぜ文系の人は理系がわからないのか

 

武田宙大    

 

 私が、京都大学の学生らと話していて不思議に思ったのが「文系と理系」という分け方をする学生がとても多いということである。

 というのは、私にとって学問は別段文系、理系に分けることなくひとつになった玉のようなものであるからだ。

 しかし、そういう自分も学生時代はいわゆる理系の学校に進学し、やはり文系と理系という見方で学問を区分けしていたと思う。

 ところで、文系の人は理系が苦手で、理系の人は文系を理解しがたいというイメージの人も多いのではないだろうか。

 では、なぜ文系の人は理系が苦手になり、理解しづらいものと思ってしまうのであろうか。いっぽうで、理系の人は文系の人たちを非科学的なことばかり言ったり信じたり、理系からすればあいまいにさえ見え、ともするといい加減な人たちだと思ってしまうのだろうか。

 前回、発表した「情報処理の本質と哲学」において、私が思考した「科学の階層構造(学問地図)」が、この問題を解決することに気づいたので述べる。同文章において私が明らかにしたのは

 専門化された学問(自然科学・人文科学)も、その基盤となっている学問を上位として分類していくと構造がわかる。

 取り扱う事象をマクロとミクロによってスケールで表現すると、哲学→論理学→数学→物理学→化学→生化学→生物学→医学→心理学→社会学というふうに成り立つことがわかる。

 また、基盤になっている上位の学問は下位の学問を定義し説明できるが下位の学問は上位の学問を説明できない。たとえば、人間の思考そのものを定義する哲学は論理学や数学を構築し説明できるが、逆に下位にある数学では哲学を構築したり説明することができない。同様に論理学がないと数学は成り立たないが数学がなくても論理学は成り立つ。けれども論理学だけではやはり上位にある哲学は構築や説明ができない。

ということであった。その関係を示したのがこの図である。前回と違うのは言語学が哲学より上位にあるという立場をとったことである。

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学問地図(武田宙大考案・作成)

ここでいわゆる文系の学問の「文学」を考えてみる。文学は人間社会があって成り立つので社会学の下位にあるといえる。

 人間は、「神」「感情」「理性」が融合した存在であると私は考える。このもともと一体化している「人間とは何か」という命題を考えるとき、哲学者や科学者は複雑難解であるがゆえ常に困難に直面した。そのため、徐々に要素を分けて考えてみようとしたのである。

 人間というものを一つの玉にたとえよう。少し歴史をふりかえれば、今でこそ自然科学者と哲学者、数学者、文学者は専門的になり分業しているが、古代において自然科学者は哲学者でもあり数学者でもあり文学者でもあった。

 最初は一つの玉である人間から「神」と「理性」を残し「感情」を分離していった。次に「神」と「理性」もなるべく分離して考えるようになっていった。これがデカルトあたりであると見受けられる。そして、幾多の変遷を経て現代の自然科学者は「神」を思考から除外することにより、理性のみで物事をとらえ考えるようになっている。(※自然科学者は神を否定するのではなく神について思考することを除外しているだけなのであるということに注意しなければならない。ここを誤解している人が多いと思う。)また、理性だけによる思考から神の存在を証明し定義しようという流れがスピノザやそれ以降のカントやヘーゲルなどの哲学者の試みであった。

 

 今回、私はこのような言語記号によって記述されている文学など文系分野の概念を取り扱うのに、数学における「集合論」を利用できないか考えてみた。集合論は数字だけにしばられることなく、人間が思考する記号対象(日本語などの単語とか)を取り扱うことができる。しかし、集合論は「数学語」による記述を主とし数学への使用を念頭において発達したため、いわゆる数学語以外の言語で思考されるものや、物理学上の物質などを概念として取り扱う場合、無理が生じてくる。

 ただ、カントールが提唱した集合論ソシュールが主張してきた「記号」の概念(文字だけに伴わない現在の言葉で言うならマルチメディアな文字や音声や映像など人間が知覚するあらゆる情報すべて)はコンピューターの発達に伴う情報処理理論、プログラミング言語やデータベースシステムなどの設計思想の根幹をなす重要な位置を占めている。

 そこで、現代のコンピュータープログラミングで主流となっているオブジェクト指向の手法を用いて考えてみると比較的とらえやすい。そもそも、コンピューターを制御する言語は人間の思考や意思を表現するために作られなければならなかったので、もっともな話である。

 

■文学とは何かを考えてみる

 さて文学とは何か?小説を題材にその構造を書いてみよう。根源的な「ミクロ」の方向から考える。小説を構成する最低限の要素は当たり前のように使っているが日本語などの人間言語である。「人間言語」という言葉は私が定義したものだが、後で述べる。その人間言語は、文字(ひらがな、カタカナ、英数字)などの集合が「単語」をつくるところから成立が始まる。

 このような集合の関係を数学語で記述すると(アルファベットの記号などや集合論の記号を用いるとかえってイメージしづらいのでここでは日本語を用いる。)すなわち次のようになる。「集合」は「集まり」と読んだほうがわかりやすいかもしれない。

単語={日本語の文字{ひらがな、カタカナ、漢字、英数字}(の集合)}

となり、単語は句読点などの記号とともに文節をつくる。だから

文節={単語(の集合)、句読点などの記号}となる。

 さらに文節は文をつくる。だから

文={文節(の集合)}となる。

 その文は、段落(パラグラフ)をつくる。

段落={文(の集合)}

段落の集まりが文章をつくる。だから

文章={段落(の集合)}

 さらにソシュールが言うところの「エクリチュール」が大きな集合として文章自体を包含しているといってもいい。このエクリチュールは「~風」という文章自体の文体などを意味している。たとえば「関西弁風」「ノンフィクション風」「童話風」「マンガ風」という感じだと思うとわかりやすい。ひとつのストーリーを文体や書き方で様々な表現スタイルに展開することである。

 すると

エクリチュール={文章(の集合)}

 最後にエクリチュールの集合は「本」「雑誌」となることがわかる。

本 あるいは 雑誌={エクリチュール(の集合)}

 

ソシュールは、記号が伝える文章などのこうした表面的な構造部分を「テクスト」と呼び、人間の意志や感情、メッセージを伝える部分は別に「パロール」と分類した。しかし、「パロール」というのは人間の「感情」の集合と文章の構造の集合(文字、単語、文節、文、文章)を対応させたものであり、このような関係を表す際にはもはや、これまで書いてきた「文章{文(の集合)}」みたいな書き方ではなく、「次元」を増やしていく立体的な書き方になる。具体的には化学における有機化合物の化学式などのような感じになってくる。

ここでわかると思うのだが、数学は人間の思考におけるミクロで低レベルな処理を担当しているため、文系領域……人間の複雑かつ高度な要素の表現をさせようとすると、処理はできるが複雑で難解な表現になってくるのである。

逆に言うと、われわれは普段の生活において、複雑な事象を「記号」によって簡単な概念に置き換えコンピューターも及ばぬ高速なスピードで処理しているということである。テクストとパロールがどんな集合になるかを書くと

テクスト={文字、単語、文節、文、段落、文章}

パロール={喜怒哀楽、好き嫌いなどの気持ち、暗号}となる。

ここで注目すべきなのはパロールはテクストの集合のあらゆる要素に対応するということである。

パロールのテクストへの直積集合(ふたつの集合

における互いの要素の組み合わせを全部求める。数学語で書くなら「パロール」×「テクスト」)

パロール、文字)

パロール、単語)

パロール、文節)

パロール、文)

パロール、段落)

パロール、文章)

の組み合わせができるが、読者は意味がわかるだろうか?簡単に「パロール」という集合の名前とテクストの集合の要素の組み合わせだけまず書いているが、パロールの中身は(喜怒哀楽、好き嫌いなどの気持ち、暗号)とたくさん要素があることになるので、実際は表のように大量の組み合わせが出現する。実は、直積集合というのは、私たちの生活ではよく目にしている「表」である。だから、今の組み合わせも縦、横の項目の表にすれば何を言いたいのかわかる。

この大量の組み合わせの集合の中から主観的に任意の組み合わせのひとつを選び出しているのが、作者の「視点」や「主観」なのである。つまり、文学というのは、常にテクストの集合に対して作者のパロール、すなわち、感情の集合が対応したものだということである。

 

■文学の形態を定義する

 すると、文学の様々な形態……詩やノンフィクションにいたるまでを定義することができるようになる。この場合、感情と理性がどれだけ比重が高いかで決まってくる。

 

理性だけの文学は{学術論文、ニュース記事、数学の証明}

 

つまり、数学的に社会事象を考えると「冷たい」と思われるのは数学語が感情表現の単語を一切持たないため感情を含まない文学となるからである。

ここで、Key(キー)という概念を定義する。これはまさに作者の「視点」であり、主観すなわち感情でもある。作者によって文章が書かれる場合、「客観的に」と言ったところで結局、膨大なテクストの集合の組み合わせの中で、前述したように任意の組み合わせを選び出している。だからその視点や主観の要素となるテクストをキーという。実はコンピューターのデータベースやインターネットの検索エンジンによってキーワードを入力して検索結果をえるというのと目的は違うがやっていることは一緒なのである。

 

文章中に理性+感情が織り交ざるものは{評論,論説文}{Key=感情=視点}

 

文章中に事実が多いと{ノンフィクション}{Key=感情=視点}

 

文章中に想像が多いと{フィクション}{Key=感情=視点}

 

感情のうち笑いを解にするエクリチュール{落語、漫才}{Key{視点}=感情{喜怒哀}}

 

感情+想像だけのものは{俳句、短歌、詩、小説}{Key{視点}=感情{喜怒哀楽}}

 

■文学作品の特徴

 理系の学術論文はA+B=Cという構造、言い換えると「前提」+「理由や説明」=「結論」であり、三つの要素のすべてをそろえないと成立しない。ところが、文学は逆にわざとA+Bだけにして、結論Cをあえて書かないことが多い。こうすることで、読者はCの結論を自分で想像したり思考して得るようになっている。したがって、文学作品を書くコツはここで明確になる。

 

文学を書くとき

→喜びを解にできれば「感動の名作」となる。

→怒を解にできれば「社会批判」となる。

→哀しみを解にできれば「悲劇」となる

→楽しさを解にできれば「喜劇」となる。

 

■構造からわかる詩の書き方

 文学が好きな人ならともかく、なかなか芸術作品のような詩を書くのは難しい。しかし、詩というものが何かを考えてみると、誰でもある程度の詩を書くことが可能になる方法が見えてくる。

 

詩は、S(主語)+O(目的語)+V(述語)かO+V(あるいはV+O)のシンプルな構造で用いる単語による「単語」「文節」「文」のいずれかを感情と直結した擬態語を多く用いて書けばよい。

 

詩とは(感情+想像だけの「単語」「文節」「文」の集まり){Key{視点}=感情{喜怒哀楽}

 

【ストーリー】メロスが王に命じられ友人のためにマラソンをして完走するが王の目の前でゴールしたら力尽きて死ぬ。友情に命をかける美しさを悲しく表現する。

 

これをパロールの要素「喜」をキーにして詩にしてみる。

 

ビュンビュビュン ビュンビュビュン

走れ 走れ

メロス

夕日を背に ゴールイン

友に笑顔で手を振った

 

次に「怒」をキーにして詩にしてみる。

 

ビュンビュビュン ビュンビュビュン

走れ 走れ

メロス

ゴールイン

友を前にして

倒れたむくろに

兵は無言で 槍を その胸に刺す

 

次に「哀」をキーにして詩にしてみる。

 

ビュンビュビュン ビュンビュビュン

走れ 走れ

メロス

ゴールイン 倒れるよ

友の前に笑顔で眠るように

息を止め

夕日が そのむくろを 静かに照らしていた

 

次に「楽」をキーにして詩にしてみる。

ビュンビュビュン ビュンビュビュン

走れ 走れ

メロス

ゴールイン

と思ったのに バナナ踏んで ずっこけた

詩を小説にするには、S+V+O(O1,O2,O3...)、S+O(O1,O2,O3...)+Vの連鎖反応を記述し、文集合による段落集合をつくればよい。また、最終結論Vを抜くことで、読者に想像と思考を起こすことができ、それゆえ「名作」になる。

それでは先ほどのストーリーを小説にしてみる。ただ、何が言いたいかの結論Vの文を外してS+Oだけにあたる文の連鎖で表現してしまう。

メロスは、三日三晩走り続けた。

 朝日が地平線のかなたからその熱い閃光がまばゆくメロスの目を痛めつけるかのように輝いても、メロスはひるまず走り続けた。

 やがて、城の門が見え、衛兵が槍を構えているのが見えてきた。

 メロスは、叫び声をあげ、両手を振りながら開いているその門をくぐりぬけた。そして、友の顔を見て、玉座を振り向くと「友との約束ここに守りましたぞ」と力強く叫び、そのまま、地面に倒れこんだ。兵士が駆けつけたが、メロスは絶命していた。その指は広がる青空をずっと指し示していた。

 

■評論と論説、ノンフィクションの違い

 このように考えていくと評論と論説も定義することができる。

 

評論は、自己の感情を視点にした題材の分析を理性のみで述べる文章である。

 

論説は、自己の感情を視点にした評論を前提におき理性のみで意見を論理的に証明しながら述べる文章である。

 

ノンフィクションは自己の感情を視点にした題材を小説的表現を用いて理性のみで事実を解説しながら述べる文章である。

 

■生命基本言語と人間言語

 ソシュールは、人間は社会によって教育されて体得した言語、すなわち日本語や英語などによって思考を行っていると主張している。しかし、私は、これだけでは不十分であると指摘する。人間は生まれた時点であらかじめ「生命基本言語」というものをDNA言語によってプログラムされ持っており、それを用いて感情や、社会から教育されて体得する日本語や英語などの言語、これを私は「人間言語」と呼ぶことにする……に「翻訳」することで使用していると考えている。

 なぜ、そう考えたのかというと、コンピューターの構造を見ていて気がついたからである。現代のコンピューターは電源を入れると、Windows やUNIXなどのOSと呼ばれるオペレーションシステムというソフトウェアを記憶装置から読み込んで起動し、さまざまな処理を行っている。ところが、オペレーションシステムの内容はいわゆる人間にあてはめるなら、社会からあとづけで教わる日本語や英語などの言語であり、そもそもコンピューターはOSを自分に読み込ませるための言語を最初から内蔵している。「OSを読み込め」という命令はそこで行われている。この言語はふだん我々が接することも知ることもないが、無意識のように使われている。同様に、人間も生まれてからすぐ、自分を取り巻く環境からの情報を感覚器官を使って得て親や社会から意思疎通するための言語を「読み込んで」獲得していく。そうするための「プログラム」は当然、人間が今使っている言語とは違うものであると考えることができるし、そうであろう。これが「生命基本言語」である。そして、ソシュールが言うところの「テクスト」を使うための言語の対応関係が確立し接続されることで、初めて人間は、日本語や英語などの「人間言語」を用いて意思表示や会話をし、人間言語によって獲得した知識を記憶にて蓄積し連鎖反応にて情報の演算をすることができるようになるのである。

 

■なぜ天才音楽児童が可能なのか?

幼稚園児や小学生であるのに、大人も顔負けにショパンなどのピアノ曲を弾いたりする子供がいる。ただ、その演奏を聴いていると気がつくのであるが、いわゆる「情感」がこもっていない演奏が多い。しかし、たいていの大人は「天才音楽少年(少女)だ」と感嘆し、早回しに鍵盤を弾く演奏を超絶技巧だと錯覚するのである。

 音楽は、人間言語の小説などと違って、「楽典」が定義する音符という「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の七つの音階記号と音を鳴らす時間の長さや鳴らし方を表す記号、演奏の法則などで記述できる。そのため、言語文学より構造上圧倒的に「簡単」なのである。

 したがって、幼児は人間に備わる生命基本言語と音符、そして楽器の音を聴覚で直接対応させる教育を受け能力を体得さえすれば、人間言語による小説などを読み書きするよりもはるかに短期間で演奏をすることが可能となるのである。

 

■理科系の学者が人文系の学者より有利な点

 数学者はまず、全世界の国民で共通に使用する数学語による記号と、概念を共通化する「公理」「定理」などを論理学を用いて認識を共有してから、思考とお互いの意思疎通を行っている。物理学者などの自然科学者も数学語を使用するため、同様に人間言語を使用しなくても思考を簡単に共有することができる。

 ところが、人文系の学問は数学語でなく、人間言語によって記述して思考している。さらに「公理」「定理」というものが、学問分野や学者ごとによって厳密化されていない。

 しかし、これは大きな誤ちである、。人文系のマクロな学問領域においてもスピノザが試みたように「公理」「定理」は論理学を用いれば人間言語による定義が十分可能である。自然科学はもともと人間言語によって記述され数学と別個に発達してきたが、論理学と数学語による記述に「乗り換えた」ことによって、特に物理学や化学が数学語によって記述されたことにより、理工学が発達し人間の思考を正確に現実化することができるようになった。それが今の理系主導の科学技術社会の繁栄を築いただけなのである。このことが理科系の学者が人文系の学者より有利な点である。

もし、人文科学の学者が理科系と同じアプローチをして研究を発展させていたら、現在の人文科学にはより違った世界が広がっていたことだろう。すなわち、まず人文科学を研究する人間言語を英語などにいったん統一して、人間の思考における理性、そして感情についてもスピノザが試みたように公理や定理を決め、それをもとに論じたり表現を行うようにして、人文科学諸分野の研究を行い知識の連鎖が論理的に成立するようにすればよかったということである。しかし、人間言語は感情との対応も同時に背負ってきたので、この問題は解消できないまま大きな障害となって今に至っている。

文系の人は理系がすでに用いてきた理性のみによる命題解決についてとかく否定的である。それは「人間的ではない」「人の心や気持ちを無視している」という感情的な反応から由来しているのだが、もっともである。最初に述べたように、人間は「神」「感情」「理性」の一体化した存在である。それがゆえに、感情を説明できないものには拒否反応が起こる。また、理性だけの命題解決はそもそも「神」や「感情」の問題を何も解決はしない。

 だから、今回のような文学を題材に、その構造を考えるにあたり数学の手法を用いる場合もテクストの構造や集合関係を明らかにすることは重要であるが、いっぽうでパロールたる感情との関係も解明することが必要なのである。

 たとえば、文学作品を理性的に分析し、感情で感想を述べるものが「評論」であるとしよう。もし、理性的な分析なしに、文学作品を読んでただ感情だけ述べていれば「感想」である。ところが、このような定義が公理や定理として確立されて文系学者の間で共有もされていないので、「評論」と「感想」が混在した文章も全部「評論」とされてしまい、文系学問のの混迷を続けている。

 

 したがって、文系の人が、理系を苦手としたり理解しづらいと思うのは、おもに数学語を十分に学んで使いこなすという作業をしていないからであり、逆にそれをきちんと行えば、文系の人が理系の知識を理解することは当の文系分野よりも簡単である。

 ただ、我々が幼児期から高等教育までに十年以上も算数から数学の教育を行っているにも関わらず、こうして数学語を十分に使えない人たちを社会に大量に生み出しているのは、教育方法に問題がある。

 それは、マクロな概念から教えてしまい、本来必要な「記号」の体得と自由な使用ができるようになるという目標がおろそかになっているからである。

 たとえば、われわれは幼児期から小学生で学ぶ数学の実生活によく利用する技法を算数と言っているが1+1=2という演算、そして9×9=81というような九九表のようなものも一見簡単に教えてしまう。ところが、こうした演算についても実際は複雑な構造の上に成り立っている。その構造と意味をきちんと理解することもなく、暗記と反復練習ばかりさせる。確かに目の前に実生活の現象があるゆえ算数によって演算方法を教え、すぐ用いさせることは実生活面に役立ち効果が手っ取り早く見える。経済的価値を求められる現代の我々の教育システムではそのメリットが大きいのでたいていの教師はこの誘惑に勝てない。

 幼児期の算数教育において、数学語の記号と、小学校高学年や中学生でようやく行う論理学の基本的要件の暗記と構造の理解(実はこれでは遅すぎる)は先に徹底的に行っておいたほうがいいのである。

次にその理解が確認された時点で、覚えた要素を組み合わせて自分の思考との対応の結びつけをイメージさせることを目標にする。公理や定理の構造と成立するプロセスを自身で「創造」、「解明」することからスタートできれば、中学や高校、大学教養レベルの内容であっても、幼稚園児や小学生でも理解が可能になる。それでも人間言語より圧倒的に構成要素が少ない数学語を教え込んで、体操のように公理や定理を教え込むだけで養成できるので表面的に天才数学児童は世間によく現れるが、文学は人間語によって人生経験によって蓄積された知識の集合を元に記述しなければならないから、どうしても幼稚園児や小学生にショパンが失恋した悲愴感を小説や音楽で表現せよといっても、できる天才文学(音楽)児童がなかなか出てこないのはこういう理由である。

 数学教育における問題は文系と同じくマクロな部分から無理やり暗記させて教えているため、自分の生命言語と数学語の対応が接続されていなければ理解されていないまま道具を使うことになり、大部分の人間が習得に脱落し十分な成果が出ないということになる。さらに数学語と論理学に根ざした自然科学の分野は「知識の連鎖反応」によって成立しているので、これを無視して教育を行うと、当の理系の学生でさえ学問の構造の理解がうまくいかなくなる。大学では「境界領域」や「応用領域」の科目が百花繚乱で流行しているが、そもそも基盤となっている学問のマスターをしないまま、いきなり文系領域と同様の複雑なマクロな領域に踏み込んでしまうとかえって、何をやっているのかわからなくなる。数学や物理学などもそうで、基本の公理や定理の理解をしないで、あいまいにしたまま、次に進んで学んだつもりになっていると、途中でわからなくなる。だから、どんなに大学生でも小学生の数学や理科の内容がわかっていなければ(この場合覚えているだけというのはわかったことにはなっていない。自分で論証が行え文章化して他人に説明できることが必要である。)、もう一度小学生の内容から順にやり直す必要が出てしまうのである。理科や数学が苦手だという人は、このプロセスを面倒くさがってやらないでいたり、気分的に逃避しているだけである。基本からやり直して知識の連鎖が論理的に行えるようにする訓練を積めば、実際は苦手ではなくなる。

 また、理系の人が文系の人を揶揄(やゆ)したり非難する原因ともなる「数学的無知、無理解で科学的手法を毛嫌いする態度」「いっぽうで文学作品や芸術の理解がしづらい」と思う現象は、理系の人が数学語を学ぶばかりで、人間言語との使い分けがうまくできていないことを意味する。たまに理系の人間で文系にも強い人間がいるが、それは生命言語が相互にちゃんと接続され両者をうまく使い分けることに成功したのである。

 数学語は言語のひとつであり、数学は論理学に根ざしているとするならば、人間言語で数学を全部記述することも可能なのである。同様に数学語でなくして人間言語で物理学を記述することも可能である。しかし、そうすると文章量が膨大になるため、あの、アルファベット記号と数字、演算記号だけの数学語の表記になっているだけである。

 

 このように、数学語、そして日本語、英語のような人間言語、さらには音楽語、運動語、絵画語は異なる言語なので、それぞれをミクロな要素から十分マスターしていなければ理解がうまくいかないことは明白である。

しかも言語が違うという認識をせず混同しているためますます他の言語によって表現されていることが難しく感じたり苦手になるのである。

 

言語教育(数学、人間言語、音楽、運動、絵画)は今回、小説の構造で明らかにした

 

テクスト(文字→単語→文節→文→段落→文章)

 

の順で、行われなければならない。すなわち、文字たる記号の徹底的な習得、次に単語の習得、そして単語を用いた文節や文、段落、文章の構築というミクロからマクロへ高度・複雑化していくプロセス……なのであるが、これを飛ばしてしまうのが現在の言語教育である。

アメリカの大学で教鞭をとったこともあり英語も得意な日本人の大学教授がいる。彼の英語の勉強法の本にまず書いていることに「必要な単語を先に徹底的に覚えてしまうこと」というのがあるが、それはこのことを実際に示していると思う。

ところが、今の学校教育では文章をいきなり読ませて文→文節→単語というように、分解的に教えはするが、学生は文字にいたるものからそれらを組み合わせたらどうなるという認識がされず高度な構造自体を「ひたすら覚える」だけになっている。もちろん、数学語の授業ひとつとっても方程式などを教えるにあたり、その成立プロセスや公理・定理を教師は「説明」はするものの、学生が要素(文字、単語、文節や文など)を用いてまず自分で公理や定理をその時点で持っている知識を使って試行錯誤を経て作り上げてみるという重要なプロセスが省かれ、理解しないまま先に進んでしまう。方程式の解法にしても、公理、定理にせよ、与えた条件や要素によって自分で考え出すという体験をさせるほうが大事で、それができないうちは先に進めないほうがよいのであるが、教育の本質より経済的価値観が重要視されている現代の学校教育においてはブラックボックス化されたまま授業が進んでいるのがほとんどであろう。

 

現代の自然科学の研究手法および論文はA+B=Cの論理学に根ざした数学語の文である数式を用いて、理論が提起され実験によって実証を行って命題を間接的に「演算」して求めている。

たとえば、仮定要素Aと仮定要素Bが満たされれば現象Cが正しい。あるいは、現象Cについて、実験Aによる結果があればC―A(CマイナスA)の演算によって方程式を解くことでBがわかる。というのが科学論文である。

だが、理系のこうした分野においても論理学の練習をせずに、いきなり論文を読ませ、まねすれば書けると教えてしまっているのは問題である。

 

■まとめ

なぜ文系の人は理系がわからないのか?

一、理系は数学語で記述されている別の言語の世界になっており、文系の人は数学語の習得が基本的に不完全だからである。

二、理系の人は人間言語によって思考が行われる学問を取り扱う場合、論理学をもとに定義された公理や定理をおくことなしに議論や思考を行うため命題に対する解を出すことができなくなっており、その混乱した積み重ねの状態が正しいのだと錯覚していることも原因になっている。

三、人間は生命基本言語を備えているが、数学語や人間言語とそれを接続するプロセスが不十分な場合、十分な翻訳ができず異種言語による表現を理解することができない。

四、「学問の階層構造」において、文系の学問領域はそもそも、理系の学問領域より下位であり、マクロの位置にある。それゆえ、人間言語で思考する文系の人は数学語で記述されている理系の学問内容を理解することは下位から上位をたどることになるので、結果としてできない。