武田学校

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なぜ東大生がバカに従うのか

「なぜ東大生がバカに従うのか」

武田宙大 

   

オウムの地下鉄サリン事件を覚えている人もまだ多いだろう。

あのとき不思議に思ったのは、オウム真理教という、ちょっと遠くから頭を冷やしてみたらアホみたいな内容の宗教を東大卒の人間や、上祐みたいな早稲田大学理工学部で電気通信を専攻したような人間が熱心に信心し、しかも教祖の麻原という男が、自分たちよりも学歴も知性もはるかに劣る、ただの怠け者のデブオッチャンであるのに、それを偉大なる教祖様とあがめて服従し残虐なサリンテロを指示通りやって殺人をしたことである。

 

 このパターンは今も繰り返されている。創価学会の教祖の池田大作も東大を出ているわけでもなく、ただのノリ屋の息子である。それを東大卒の信者があがめて服従する。

 幸福の科学大川隆法も東大卒とはいえ、勤めていたトーメンをやめるはめになり自分で教団教祖になったら、東大卒のもっと仕事も勉強もできるような人や院卒者がやはり信じて服従している。

 

 政治でもそうで、東大を出ていない専門学校卒の田中角栄を東大や早稲田・慶應卒の人間が服従した。

 会社でも東大より学力がはるかに劣る日大卒の社長に東大卒の学生が「ありがたがって」就職し、手足となって服従する。

 

 なぜこの人たちは、自分よりレベルの低い人をあがめて服従するのだろうか?

 

 先日、京大の哲研で北一輝の「国体論」をやった。右翼を取り上げるとは珍しいことをするなと思い、参加してレジュメを読んだのだが、どう読んでもこれが右翼思想の文章だとは思えなかった。

 驚いたのは、古今東西の哲学・思想を縦横無尽に駆使して用いながらその知識と読解力の深さがあふれる文章だったことである。なんと北は二十三歳でこの文章を書いたとのことである。

 これが、大日本帝国時代の皇道派の陸軍将校らを熱狂的なファンにして、結果として二・二六事件を引き起こし北は最後、理論的リーダーとして認定されてしまい軍部に処刑された。

 さて、普通の人間なら、やはり北一輝のこの文章を読んで「すごい」と信じてしまうと思う。しかし、京大哲研のメンバーはよく古今東西哲学書を読んでいるつわものが多いので、
「これは、グダグダ、あーだ、こーだ理屈をこねて、さも複雑難解なことを言っているようにみえるが、実は北自身の主張についてオリジナリティは乏しい。彼が意図したのは、社会主義革命であり、その大義名分を実現するための道具として天皇を利用しようとしていたにすぎない。」
と、あっさり斬り捨ててしまったのである。

 

私もそうだろうと思った。実際、北は文中で「天皇を君主」と何回も連呼している。

 

私は右翼思想も左翼思想もそれなりに知っているほうではあるが、いくらなんでも、これを当時、明文化したら、たちまち特高に逮捕されるレベルだ。実際、この本自体も発禁処分くらったようである。

 

ちなみに、当時の陸軍将校にせよ、軍学校で学ぶ士官はバカじゃなれなかった。基本的にエリートなのである。現代なら学力が高い連中。それがどうして、北の文章のごまかしに気づかず、信じ込み、クーデターまでしたのか?

つまり、冒頭に挙げたように、この時代でも同じことが起きていたのである。北一輝は確かに博学だが、帝大を出たような学者や研究者ではないのである。

哲研のメンバーも「北は耳学問の人だね」とコメントした。その通りだろう。乱暴な言い方になるが陸軍士官学校を出た二・二六事件の首謀者らより北のほうが単純な学力という点では「バカ」なのである。

 

ところが、その「バカ」の言い分をエリート将校が狂信したのである。なぜか?

 

そもそも二・二六事件を起こした将校らは「皇道派」という軍部の派閥で、東北などの貧しい地域の出身者が多く、当時の財閥・金権腐敗した政党政治によって貧富の差が激しい社会となり郷里の家族や友人らが悲惨な生活を送っていたことに直面して激しい憤りを感じていた。

そのため、ブルジョア打倒の世直しを真剣に考えていたわけである。

 

そこに北は、その一般市民がいかにブルジョアによって搾取(さくしゅ)され蹂躙(じゅうりん)されているか、それを正すためには天皇という錦の御旗を利用してブルジョアを暴力で打倒する革命が貧民を搾取から解放し幸せな世界をもたらすために必要かという「ささやき」を巧妙にするのである。

つまり、北の国体論は一見論理によって説明して納得させているようにみえるが、実は違っていて、単純に「感情」をうまくコントロールしているのである。

 

将校らにとって、必要だったのは自分たちの感情を、感情ではなく理論として表現してくれるリーダーであった。

 

逆に言うと、彼らはエリート学校出身で高い学力もありながら、目の前の社会問題に対しての解決方法を自らオリジナルに考えようとせず、北のような感情的に熱い人間をカリスマ教祖として安易に信じるほうが楽だったので身をゆだね思考を停止してしまったのである。

 

これは現代の学問体系の大きな落とし穴なのである。

 

なぜなら、当時も含めて、そもそも近代の学問はデカルトらの哲学をもとに形成されてきた。だが、デカルトにせよ、スピノザにせよとにかく、哲学者が行ってきたのは「人間の感情と理性の分離」そして「理性の思考方法」である。

そもそもは両方とも取り扱うべきなのであるが、感情が「神の領域」にあるがゆえ、哲学者らには手に負えず分からないままなので、妥協策として思考の対象からいったん除外することで逃れてきた。

それゆえ、哲学を基底にした学問では感情は心理学で取り扱いはするが、それも客観的なものであり、肝心な自己についての認識やどう生きればいいのか?というような命題については立ち入らず、相変わらず「神の領域」にボールを投げ返してしまうのである。

※よく科学者が「神様を信じない」「無神論者」「宗教と距離をとる」「政治的中立を保つ」という、一見、理性や科学だけでやっていけるというような言動や態度をとることがあたかも尊重され、正しい態度のように思われるが、実際は単に「神の領域」に立ち入ることを逃避しているだけである。

 

ここで明らかになるのは、思考は感情から生まれるということである。

 

社会問題に直面したとき人間は「怒り、悲しみ」の感情が起こり、それが「どうすればいいのか?」という思考の命題を生む。

歴史を振り返っても哲学が発達するのは気候変動が氷河期のときであり、人類が天災や疫病(えきびょう)、飢饉(ききん)、大恐慌に苦しんでいる時なのは興味深い。

「感情は哲学の母」

「天災と経済的貧困は哲学の父」

であるともいえよう。

 いっぽうで、昔から哲学を勉強する人間は全人類の中でも限られているという痛い事実がある。現に京大は人員二万人の学生と教職員がいるが、哲研の例会に来る人間が十名に満たないことからも明らかである。

 

大部分の人は哲学を学ばない、また自分で思考するということについて訓練を受けないで育つ。

 

学校で学ぶのは数学や自然科学、文学などについての限られた分野での思考法であり、しかも哲学からさらに実務的に使えるメソッドのみをピックアップして用いているだけである。

 

自分自身で社会問題を解決するための思考ができるようになる教育が抜け落ちているのである。

 

このことが、結果として、いくら高い学力を身につけても、肝心の自分自身の心や感情、そして社会問題について思考し、自ら解決法を見つけ出せる人間がほとんどいないという状況をつくる。

 

だが、人間の精神のベースは心と感情であり、心と感情がある以上はその問題について向き合わないといけない。

 

しかし、向き合うための哲学を持ち合わせない大多数の人たちにとって「その部分」をアウトソーシングで逃避することが「楽」という快楽の感情をまた起こすものだから、人々は、自らの思考を停止し、他人の思考に身をゆだねるのである。

 

だから、その対象は、実は誰でもよく、感情的な快感さえ与えてくれればいいのである。

 

カルト宗教や過激政治団体の勧誘が最初は優しく心地よいというのはそこに起因する。

これは、あらゆる組織に共通するのである。

 

冒頭では宗教団体を挙げたが、会社でも起きている。

会社の人事はほとんどの場合、経営者や上司がその人物を好きか嫌いという感情で決めており、その感情を理論的に説明する「はりぼて」の道具として業績考課システムを用いている。

大学も同様で理性や実績の科学的な評価を用いて人事を行うべきはずの組織でも当たり前のように起きている。

 

京都大学で起きた「国際高等教育院」騒動も象徴的な例なので解説しておこう。

この問題は、松本総長が個人的にそもそも嫌いな左翼思想活動に教授や職員が染まって言うことをきかないため、京都大学から左翼思想活動を一掃することを目的とし、その理論的言い訳として引き起こしたものである。

確かに、近年の京都大学は自分たちの大学からはえぬきの教授を輩出できず、東大から教授を招聘してしのいでいる状況である。

また、学生らの教養教育も不十分で東大生に大きく水をあけられているというのも現実にある。

それを改善するために基礎的な教養教育を学内に補修させるための専門学校をわざわざ設け、ついでに自分が感情的に嫌いな人環・総人の教授や職員を人事異動の名目で粛清して自らの好きな人事を実現しようとしたわけである。

ただ、理性でなされるべき人事を感情で行っているというホンネを言うわけには決してできないので、二・二六事件の陸軍将校らと同じくその理論的言い訳の「はりぼて」を作り上げたわけである。

それが国際高等教育院構想であった。

松本総長の目標は「京大を東大のサブセットにする」「京大の東大化」であった。

だが、そもそも松本総長は勘違いをしている。東大と京大ではその大学の目的が大きく異なるということだ。

 

東大は明治時代において欧米列強の最新の学問を確実にキャッチアップし、自国のものとすることを目標として創立された。

 

だが、京大は東大によってキャッチアップされた欧米の学問をもとに日本独自の独創的な学問や科学を切り開いていくチャンレンジャーを養成するための大学なのである。

 

東大はトヨタのテストコースであり、京大はF1サーキットの会場なのである。

つまり京大はイコール西日本の東大ではいけないのであって、東大プラス以上でなければいけないという高いハードルを課せられた大学なのである。

 

であるならば、そもそも東大をお手本にし、東大みたいにしようと考えること自体が誤りである。京大に必要なのは、自由と暴走であり、アドレナリン全開でセカンドインパクトサードインパクトを恐れず冒険的かつ挑戦的な学習や研究環境を教授と学生にふんだんに用意することなのである。

学生らの自由な創造活動の立て看板の乱立、時計台の占領行為というジョークに対し、豪快に笑い飛ばして

「こんなんじゃつまらんな。もっと暴れてマッドになってノーベル賞とってこい」

と学生らに激を飛ばすぐらいの飄々(ひょうひょう)とした大人さが京大の総長には必要だ。それが嫌な人間は、そもそも東大に編入して京大を去ればいいだけである。

 さて、松本総長が感情的に嫌いな、いわゆる「左翼」すなわち共産党みたいな政治組織でもこうした問題は同様だ。

ナチスドイツや北朝鮮みたいに国家社会主義を掲げる独裁国家が成り立つのは同じく、宗教が政治思想に変わっただけだからである。

そこではやはり、「教祖」たる「独裁者」がいて、それに人民が服従するという構造ができあがっている。

 

だから独裁者はやはり学力の低い「バカ」でもよく、それに学力の高いエリート学校を出たはずの人民が「総統閣下」とひれ伏して服従するこっけいな話となる。

 

近年、先進国では国会議員などの選挙の投票率が低く、政党支持率も下がって無党派層が増えていることが社会問題になっている。

 

だが、同時に無党派層が多数を占める選挙では感情的な快感を与えてくれる候補者の当選が多いことにも気づかないといけない

すなわち、無党派層というのは哲学不在の人間の集合であり、人々が実は自らの思考を放棄して、快楽を与えてくれる「教祖」を求めさまよっている状態なのである。

つまりファシズムや過激な政治思想、変ちょこカルト宗教が蔓延する手前だということである。

 

これが、東大生がバカに従うようになる理由である。

 

そして、そういう人たちの集合では、ファシズムや宗教が発達し極大化することになる。

また、人は自らの思考を他人にゆだねた時点で、その人間より知性が下になるということも意味している

 

ということは、北一輝に自らの思考をゆだねた陸軍士官学校の将校らは北一輝より知的レベルが低い人間になってしまったということである。

 

これによって導かれるのは、そのような組織は、教祖や指導者を感情か知性によって打ち負かしてしまえば容易に組織全体が打ち負かした人間の配下に収まるということも意味している。

 

これから導かれるのは、松本総長が反対派を恐れるあまり総長室に閉じこもってウジウジ(宇治宇治)インターネットして隠れ、手先の事務員を使って反対派に対応して、ますます対立に火を注いでいるが、それは大きな間違いだということだ。

自分が正しいと思うなら、正々堂々と時計台ホールで反対派代表の教授や学生と全学公開討論をして勝てばよい。

そうすれば、この問題も収束するであろう。

 

松本総長は科学者として宇宙発電システム分野では権威らしいがやはり哲学をきちんと学んでいない「痛い人口の一人」なので、自ら撤去した学生の立て看板を持参して返還し哲研の例会に出て一通り古今東西の哲学を学ぶべきである。

私からすれば、京大の総長たる人物がこの程度の左翼集団相手に論破できないんじゃ、そもそも世界レベルで京大が今後勝てるわけないと思う。

 

 大企業のCEOは、日産を再建したカルロス=ゴーンであろうが、基本的に会社や組織の建て直しをする場合、まず全従業員との対話を機動的かつ精力的に行い、自らのビジョンと経営計画を説明して議論し浸透させるのが常だ。

できる経営者や政治家ほど逆に反対派と積極的に対話するものである。

天皇陛下でさえ被災地に自ら出向いて体育館の床にひざまずいて多くの国民と対話をされる。松本総長がそれをしないのは、企業経営者のレベルで考えてもおかしく、程度が低い。
 
■まとめ
一、哲学を自らしない人間は、思考を他人に外注し、そのほうが楽なので、自分よりバカで愚かな人間であろうと関係なく、宗教や過激思想に染まって服従するようになる。

二、東大生のような学力の高いエリートが自分より学力の低いバカを教祖として仰ぐのは、教育に哲学が抜け落ちていて自分で心や感情、社会問題を思考する能力を磨かないからである。

三、感情が思考を生み出す。

四、その人間の知性レベルは入信している宗教や所属している政治団体・企業などの組織の教祖や代表者のレベルで決まり、そこから上にはならない。

五、個人の思考の外注はカルト宗教や過激政治思想の蔓延の元である。