コピペの哲学
武田宙大
二〇一四年、日本の科学界に激震を走らせたのが、小保方靖子による「STAP細胞騒動」であった。
もちろん、京都大学iPS細胞研究所にとっても脅威であった。というのは、もし、STAP細胞が本当に存在して実用化できれば、そもそもiPS細胞自体がいらなくなり、山中教授の研究の必要性を根幹から揺るがすものであったからである。
幸いに?小保方氏の研究は、まったくの虚実であったことが判明し、日本科学界の最高峰、理化学研究所の、これまた京大出身のエース研究者笹井芳樹氏の自殺という連鎖反応を引き起こした。
さらに、科学界にも激震を走らせた。なぜならご存知のとおり科学界の最高権威でもある論文誌「Nature」にまったくのねつ造論文がそのまま掲載されたからである。
この小保方という女性研究者の人生も不可解なものだった。明かされるずさんな研究手法や、幼稚な研究ノート、そして彼女の以前の研究論文などに本題の「コピペ」が横行していたからである。
私は彼女を「コピペの女王」と名付けた。
■コピペが横行する教育現場
私が高専生のころ、ワープロは高価なものであり普及し始めだった。当時、PCを自由に使いこなし、次世代のワーキングスタイルを確立するため模索していた私は、ノートパソコンで会議中の議事録をそのまま録音せずタイピングで作成したり、手書きのメモやノートを排して、すべてPCのドキュメントでそのまま打ち込んで表現するなどの実験をしていた。
だが、理工学の現場でそもそも、PCによる情報管理はその当時でもそれほど進んではいなかった。論文は手書きからワープロで入力しなおし、さらに印刷屋でデータ処理ができず、わざわざ印刷したワープロ文書を再度職人が活字入力するなんてことも当たり前だった。
そのため、教育現場で生徒ひとりひとりがPCを操作してレポート作成をするということは、まずなかったのである。
私も、化学の実験レポートを毎週手書きで書かされた。だから、コピペはしづらいというか、ほぼ不可能だった。
ところが、私が学校を出てから数年後、ようやくレポートなどでのワープロ使用が浸透しだした。
すると、徐々に他人のレポートをデータごと流用することが横行しだした。これが現在、教育現場を悩ませるコピペ問題となった。
先日、お会いした大学講師の話だと
「いまや、大学のクラスの全員がコピペしてレポートを出してくる」
「コピペのコピペがあるため、3つのコピペが並ぶとどの学生が発生源か特定するのがきわめて難しい」
それどころか
「研究者の論文自体、コピペ当たり前ですよ」
という始末である。
■コピペは悪いのか
この、議題は女子高生が援助交際などで売春をしてつかまると抗弁する「自分の体で自分で稼いでお金を得て何が悪いのか?」という話と、意外と本質が変わらない。
この論文をお読みの諸君は、この女子高生の抗弁を撃破できるだろうか?
まあ、世間的なオッチャンが「ふざけるな」と激怒しても、実は、本人が「悪いことなのだ」と自覚できなければ、こうした問題は一向に解決しない。
では、そもそも「コピペは悪いのか」というところから考えたい。
私は、コピペ自体は「プロセスとしては必要である」と思う。科学論文は、前提に「既論文の引用」による「公理化」が必要だからである。むしろ、引用される度合いが高い論文ほどその研究者は評価が高い。
アインシュタインの相対性理論を使用して論じる科学論文なら、当然、その論文の記述はそのまま必要になる場面が出てくる。文学もしかり。
それをいちいち、自分の文章に言い直していたら、科学の歴史が進むほど後世の研究者は不利になる。
わかりきって、公理化されている内容はむしろ、その文章が洗練されて無駄がないのであれば、コピペして使用したほうがいい。不用意な活字の誤字点検作業が必要なくなるからである。
でも、そういう内容は相対性理論の論文をコピペせずとも「相対性理論によれば」という一行、すなわち「シンボル化」(※わかりやすくいうなら、インターネットホームページの『URLリンク』)で済んでしまう。
このほうが、文章量が減るので、紙資源、サーバー資源も節約できるので地球環境保護活動にも貢献する。
いっぽうで、学生のレポートや研究者の科学論文は何のために書くのか?という本質的な命題がある。
君は、答えられるか?
私はこう答える。
「自分の意見や、見解、主張を表明するため」
これに、君の反論がなければ「解」は出てしまう。
「レポートや論文において、その文章中の論文の引用をシンボル化によらずコピペを多用して自分の意見や見解、主張を少なくすれば、レポートや論文ではない。だからコピペは悪いのである」
ということである。
■なぜコピペが横行するのか?
では、なぜ、学生も研究者もコピペに走るのだろう。
それは、学生や研究者が自分の意見や見解、主張を考える時間、チャンスが現状の教育現場にないか、その必要性が低く見られているということである。
たとえば、今の学生は、京都大学になんのために来ているのか?自分で一行かつ大声で時計台の前で叫べるだろうか?
「純粋たる学問を追究するためです」
いるか?確率的にかなり少ない気がする。
「卒業して、いい役所や会社に就職していい給与と待遇を得るためです」
かなりいるだろう。
「国からの研究費を確保するためです」
研究室の人間はこう言うだろう。
つまり、学生も研究者も「お金のため」なのである。「短時間で効率よく」「お金を得たい」これが、京都大学にいる九十九パーセントの人間のホンネである。
自分の意見や見解、主張を、培い、表現するには実は相当な時間とお金がかかる。でも、いまの全国の国公立大学や研究機関、企業の研究所でも同様だが、そんなことをしていたらたちまち数年どころか何十年もかかってしまう。
そうしたら、お金を出してくれる人には、結果も見せることができない。就職もできない。だから、「学問」「研究」という皮をかぶった「研究という名」の「はりぼて」で、お金を得ることが「仕事」になる。
先般、産学協同研究をしている企業の幹部が「大学の研究室で、やれ、ロボット作ったといっても、そのあと産業界でまともに使えるものができていない。だから、産学協同しても使い物にならない。」と嘆いていた。
どこの研究室も「作りました」「発表しました」としないと、次から国の研究予算が減る。だから「やっつけ仕事」で「成功パターン」でしか研究テーマをとらなくなる。結果として、アインシュタインみたいな相対性理論を考えよう……世界の科学的な公式を変えてしまうぐらいの、長期間の思考活動ができなくなっている。
いったい、今の京都大学理学部の物理学専攻の学生のどれだけが「おれも相対性理論は間違っているに違いないから書き直してやる」ぐらいの意気込みで入学時から、ひとつのテーマを死ぬまで思索するだろうか?
そうした、「大人」の姿を見て、子どもたちは「一生懸命考えても報われない」から「コピペしてテスト結果出せば、成績スコアはよくなるし、卒業できていい就職ができる」ということで、「効率性」を追求してコピペをしているのである。
■科学者の原点
そもそも、科学者は哲学者である。ただ、取り扱う事象が「目に見える」「実体」であることだ。
二十一世紀において、先端科学を追究する京都大学の研究者諸君が、自分たちの今、書いている論文、そのもの自体の構造について深く考えたことがないのではないか?
「この論証スタイルでいいのか?」
誰か疑問を感じて、新しい論文の構造を創造しようとしたことがあるか?
「教授がこうだから、こうしてきた」
だと思う。こうして三段論法などデカルト以来の近代科学は本質が変わっていないまま、現在も続けられている。
そして、論文がNatureやNEJMに載ればそれが「正しい」と信じている。だから、誰も小保方のコピペを論文掲載前で気づきもしなかった。
科学がいつの間にか「信仰」「宗教」になっていたのである。
科学者は、よくUFOなどの超常現象をバカにする。東大の科学者は私に「思考実験」という言葉をよく使った。
「思考実験」というのは、自由なSFの世界である。実証できないうちは、どんな偉い科学者が論を立てても「思考実験」でしかないのである。現場の方には悪いけどSFだ。
「思考実験」というのは頭の中のシミュレーションである。天才科学者、仏像などを彫る仏師は3D・CADもないのに、頭の中で設計とシミュレーションを終え、論文を書いて、仏像を彫っていることが多い。
そのシミュレーションも、哲学である。
■まとめ
一、一連のSTAP細胞騒動で露呈した日本の学生・研究者のコピペ問題は深刻である。
二、「コピペはなぜ悪いのか?」と、学生や研究者を自覚させられる本質がわかっている人はほとんどいない。
三、「コピペが悪いという理由」は、レポートや研究論文をなぜ書くのか?という本質に根ざして考えれば自覚できる。にもかかわらずコピペに走るのは「学問よりお金」を、みなが取るからである。
四、「コピペ問題」を生みだし、研究ねつ造が相次ぐのは、大学の研究が国からの予算の獲得と短期で結果を出さないといけないという、研究体制の考え方の問題である。
五、科学者が哲学者でなくなり、自分たちが書いている論文スタイルひとつとっても、疑問や改善を感じないとき、科学はもはや「信仰」でしかなくなる。「信仰」ゆえ小保方氏のねつ造を見抜けなかった。