武田学校

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永冨正之先生逝去にあたって

 永冨正之様がコロナで外に出れない去年どうもお亡くなりになっていた。こういうことが起きてしまう。老人ホームいらしたようだが。コロナの陰で大事な人が次々去られている。

 東京芸大の作曲科の大御所の一人だった。伊福部昭という巨人が東京芸大の作曲科のルーツのひとつだが、彼はその弟子の一人だった。私の恩師の原田甫さんは、伊福部先生と同じ北海道札幌二中の出だったので、伊福部先生一筋だったが、永冨先生は当時東京芸大にフランスのクラシック界の風を持ち込んだ高濱虚子の息子の池内友次郎に師事した経緯があったので、どっちかというとフランス系だった。

 でも、苦学生だった時代、黛敏郎芥川也寸志らの仕事をつくって食わせていたのが伊福部先生だった。その面倒をみてもらっていた一人に永冨先生もいた。

 そのプロジェクトが「ゴジラ」の音楽づくりだったのである。あの、アメリカでもリスペクトされたゴジラのオーケストラ音楽、当時の日本の映画音楽けっこう伊福部門下生が手掛けていた。

 永冨先生は私の師の原田甫さんいわく「オーケストラの曲をピアノに直す編曲の才能は日本一だと思う」ということだった。

 原田さんは当時、奥様を亡くされ、そのために曲を書いていたがギターの曲だった。でも当時その曲を世界の山下に弾かせたが「難しくて弾けない」とおりたので、友人だった永冨先生がギターからピアノに書き直していた。

 私は世田谷の代沢の永冨邸に行って、永冨氏のピアノ演奏でその曲を聴いて涙した。

奥様は永冨和子さんでやはりクラシックのピアニスト。「ムジカノーバ」というピアノ指導者向けの雑誌にはよく登場されていたと思う。

 でも「いやあ、ピアノの腕前も奥さんより上手だと思う」と原田さんは私に言っていた。私も聴いていたが、そうだと思う。

 永冨先生は東京芸大の附属高校の校長に最後なって、引退後は桐朋や聖徳学園で教えていらしたようだ。でも、そのとき読売新聞にスキャンダルをぶちあげられていじめられていた。脚のひっぱりあいって嫌だよね。つくづく思った。

 その永冨先生も伊福部門下生の最後の一人だったが、ついに去られた。あの時20代の私も50代前……すっかり時が流れたのだと思った。

 ご冥福をお祈りいたします。