なぜ思考は現実化するのか
武田宙大
人間がいったん
頭に描いた工夫は
実現しないことはない
実現しないのは
細心さと熱心さが
足りないからだ。
私が東芝で仕事をしていたときに、昼休みに工場のエントランスホールを何気なく散策していたら会社の歴史を紹介していた映像に流れていたテロップである。田中久重(1799―1881)は江戸時代「からくり儀右衛門」として名をはせた技術者だが、佐賀藩に重用され欧米の科学技術をキャッチアップし日本の工学の発展に多大な寄与をした。そして、東芝の創始者となったのである。
このような考え方を江戸時代に確信していた田中に驚きを感じる。田中のことばは現代の理工学者においてもまったく通用するからである。多くの先端研究者もこのことばに何らかの本質的な感銘を受け同意をするであろう。
私がこのことばを見たとき、ジュール=ヴェルヌ(1820―1905)の空想科学小説(SF)を思い出した。ヴェルヌがSFで描いた世界のほとんどがその後実現していったからである。
つまり、形而上学によって人間の頭脳で想起された内容や思考、シミュレーションは必ず現実化するというわけなのであるが、なぜであろうか。
田中のことばを一行にしたことばがある。
「思考は現実化する」
ナポレオン=ヒル
ナポレオン=ヒル(1883―1970)は、ビジネスの人にはけっこう知られているので書店でその著書を読んでお金持ちの成功哲学を学ぼうと思う人も多いだろう。
では、この文は成り立つであろうか。
「現実は思考化する」
現実を思考化するためには、現象や事象を感覚器官で認識した情報を言語化する必要がある。言語化ができれば思考することができる。
これは理論物理学が実験物理学によって検証される過程と同じである。たとえば、宇宙の構造を理論物理学で唱えても、実験物理学によって検証されなければSFなのである。
さて、思考の数と、現実の数はどちらが多いのであろうか?物理学によって表現される以上、もし、宇宙は有限であるという説が正しいのであれば、われわれの現実の世界は「有限」となる。いっぽうで思考は現実と対応しなくても存在できる。この考えについて、既存哲学者の主張を振り返ってみると、たとえばスピノザは「エチカ」の第一部「神について」の定義二でこう述べている。
「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。」(http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/conc.htm)より引用。
これを読んで私は次の図をイメージした。
スピノザは物体(現実)と思想(思考)は別に存在しており、相互に干渉しないと考えた。また、物体も思想もそれぞれの世界においては「有限」であるとも考えた。
しかし、スピノザは「有限」「相互独立」は述べたが、物体(現実)と思想(思考)の数についてどちらが多いかまでは考えていないようである。私は思考の数は明らかに現実の数より多く存在していると考える。
理由を述べる。「我思う、ゆえに我あり」とデカルトが主張したように、思考と現実がひもづけされ対応した状態が今のわれわれの自我であり、「いま生きている」という感覚である。スピノザも認めるように現実と思考は別々に存在していながら、思考は一つの現実に対していくつも行うことができる。(われわれがある事柄に関して「あーだろう」「こうだろう?」といくつも考えることができることからも自明である。)
したがって、科学における「新発見」というのは、そもそも有限な現実において、膨大な数の思考と対応する組み合わせの一つを見出しただけにすぎない。
また、このことは、私の学問地図において哲学が言語学の一つ下であらゆる学問の最上位に近い位置にありながら、プラトン、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、ソシュール……とおびただしい数の哲学者とその哲学を生んでおきながらも、いまだに、どれひとつとして現実の世界と一対一で対応できないことも意味する。
しかし、田中が指摘した「細心さと熱心さが」で限りなく思考を続ければ、われわれは膨大な思考の集合、これを「思考の雲」と呼ぼう……から、いつしか現実と対応する解としての哲学を見出すことが可能であろう。
実は、二十世紀に発達したコンピューターによるシミュレーション技術がこの「細心さと熱心さが」が人間には足りないという弱点を克服した。すなわち、膨大な思考をコンピューターにやらせることによって、現実とのマッチング作業を「データベースからの検索」という形で行うことができるようになったからである。つまり、「現実化する前の思考の雲」をわれわれは先に手にすることができるようになったのである。
私が、二年前に京都大学の研究発表の展示を見ていたら、地震の震源を特定するための新たな手法を開発していた研究室があった。従来、地震の震源は日本列島のいたるところに設置された地震計からの実際の波形データをもとに推測するのだが、それだけでは不十分だ。実際、地震の発生地点は陸上から遠い海中の数十キロメートルもの地底深くだったりすることもあるわけで、科学者といえど誰もその場所にいて測定していたり、見てもいやしない。だから、間接的に得られた観測データでなんとか計算して「ここだろう」と推測しているだけである。
さて、説明していた大学院生はすばらしいことに、私もかねてから「やればいいのになあ」と思っていたこのアイデアを実行に移していた。まず、地震の波形を逆に発生させるモデル式を理論的に作っておきコンピューター上でプログラミングしておく。そしてモデル式にあてはめる数値(パラメーター)をいろいろ変化させて膨大な数の人工地震をコンピューター上で起こしてしまう。すると「架空の地震波形グラフ」が大量に出来上がる。次に、その波形データをデータベースに蓄積し、実際に起きた地震の波形データと似ているものをコンピューター上で検索して震源を得るのである。
そんなこと、ふつうに人手を使ったら、いつまでも終わらないぐらいの計算をしなければならないが、私が生きている二十一世紀ではスーパーコンピューターがある。彼はスーパーコンピューターを二日間フル稼働で計算させて、膨大なデータの集合=「思考の雲」を得たのである。そして、実際に起きた地震のデータをもとに「雲」から検索してみたら精度の高い結果が出たそうである。
この手法は、私が思いつくだけでも他の科学分野でもいろいろ使えるのである。たとえば、「GCAT」のDNAのワードだけで記述できる生物や人体の組織、ウィルスや細菌など、その長さが比較的固定されているものは、同様に片っ端からDNAの組み合わせを全計算してしまい、データベースという「思考の雲」に格納後、統計分析を行う。こうすることで、まったくウィルスや細菌として機能しない「インチキウィルス」「インチキ細菌」「インチキ細胞」も計算されてできあがるだろうが、この膨大な「思考の雲」から理想の状態のものや、未知の機能性、変異の方向性などが含まれていて予測できる可能性がある。すると、実際得られているDNAのパターンと検索して照合すれば、効率的に新たな治療薬の開発や新種のウィルスや細菌の製造さえ可能になるであろう。
また、同様に、元素や物質についても同じように全計算すれば、未知の元素や物質の予測も可能になってくるし、それをもとに現実の世界を探索したほうが、効率がよいであろう。
さらに、学問地図にある「下位の学問」すなわち、取り扱う概念や構造がマクロ化され複雑になっていく文系の学問においても使うことができる。
たとえば、単語辞書をもとに、サイコロをふるように単語や動詞を偶然的に組み合わせて「自動俳句」「自動短歌」を詠(よ)ませてみると、案外、面白い歌ができたりする。これなんかも、同様にスーパーコンピューターですべての組み合わせを計算させて、統計分析すると、人間が感動や意味を感じ、詠もうとする組み合わせがゾーン的に得られるはずである。それは人工知能やアンドロイドに俳句や短歌をあたかも一人の人間であるかのように季節感も含めて詠ませるという奇抜なSFを現実化することになるだろう。
前回の論文(「なぜ文系の人は理系がわからないのか」)で、私が、小説や論説文などの文学を構造定義してみたが、それを用いて単語辞書をもとにスーパーコンピューターで「全作文シミュレーション」をさせてみると、やはり面白い結果が得られるであろう。
■まとめ
それで、表題の問いかけとなった「なぜ思考は現実化するのか」という命題の答えであるが、
現実も思考もすでにすべてが存在しているが、それが結びついていないからわれわれは、「未知」だとか「わからない」と言っているだけである。
思考するということは、「思考の雲」をつくることである。「思考の雲」は大きければ大きいほど現実へのマッチングのチャンスを得やすい。
だから、われわれは、大いに思考したほうがいい。少年少女と科学者は大いに妄想をふくらまし、頭が痛くなるまで思考したほうがいい。すると思考の雲が巨大化する。
そこで、巨大化した思考の雲から「細心さと熱心さが」で、丹念に照合作業を続けていけば、必ず思考と現実が結びつくパターンがみつかる。これが「思考が現実化する」ということである。