大事なのは、こういう言葉を「自分の考え、言葉で言えるか」なんだね。
人の本読んで、それを言うレベルだとダメ。
イチから自分で考えて、根本から、基本から考えて「自分なりの解」を出す。
さらに、それを「可能な限り短い表現」にまで落とし込むんだ。
俺がやっている作業は、常にそれだけ。シンプル。
でも、たいていの人間が「自分で考えないで」「人の考えを利用」ばかりしているから、特に、東大だろうが勉強家している人のほうが陥りやすい「トラップ」だね。
そういう人は、一生評論家で終わってしまう。俺の場合そういう人を「大学院生の毛の生えたやつ」と呼んでいる。知識はあるんだが、肝心の骨がない。
骨がないから、肉となる教養や知識もうまく育たない。生かせない。
したがって、能力やパフォーマンスも悪くなる。そういうこと。
ここまで、簡単に書いたが、わかるやつがどれだけいるのだろうか?
いたらいいね。俺のレベルについていける。
多分、ほとんどの人が「まずい」と気づいて、自分で考える努力を始めるかもしれない。だが、俺が簡単に言ったことが実は超難しいことも知ってしまう。
なので、怠惰で根気がない君たちは挫折して、誰かの意見を聞いて従うほうを求める。
全部お見通しさ。君たちのレベル。
では、本題にいくか。「愛」って何?答えてみて。
1.アホは「セックス」って思う
2.次ぐらいが「好き」とか感情の話だと思う
3.その次が「親子愛」とか相手を所有する根源となる意味だと思う
4.少し宗教やってる人間なら、キリスト教や宗教でいう神の意志……という人も出る
じゃああなたは?
そうね、自分の場合は「この自分の世界に満ちた何か?」というのが現時点の解。
自分の心を開いて、自分のいる世界の音や目に入るもの、すべてを感じるようにする。すると自分は、個体としての細胞や物質でなくて「自分のいる空間すべて」とつながっている存在だと認識する。その自分の周りを満たしている空間すべて……それが愛だと。
こういう感覚は、アイヌやインディアンとかハワイアンみたいな、古代民族の人のほうが実感しているし、日々の生活で実践している。
わからない?そうか……。
そういうあなたにわかりやすく説明すると
「自分の、触れるもの、聞こえるもの、すべてに魂が宿っている。ドアのノブや手すりに触れるとき、それは金属や木ではなく、神様や仏様が宿っている。だから、ドアや手すりを乱暴に扱うことは、神様や仏様に暴力をふるっているのと同じです。だから物を取り扱うことを大事にしなさい」
「この世の中はすべてつながっている」
自分は裏千家の茶道を17歳からやっている。
茶道では、現代社会ではまずしない動作が多い。
たとえば、お茶碗や道具を出すときは、整理整頓、順序を守って必ず「音をほとんどたてず」「静かに」「ゆっくり」「ていねいに」取り出す。しまう。
こういう所作を徹底させる。
でも、これは「骨董品のお茶碗」だから「割れないように」という科学的・工学的な意味もあるのだが、本質的には「すべてのものに心や魂がある」「それを大事にしないと」という意味だ。
なぜなら、茶碗、茶杓をつくる職人様は、ひとつの道具、器をつくるのに、ものすごい苦労と努力、自分の命・神経を注ぎ込んで完成させている。
職人の心や魂がこめられた、作品、道具は、職人が死んでも生き続ける。
家もね。
小さいころ、習字を習っていたが、先生は子供たちや私が退屈して乱雑に筆を動かして遊んで書こうとすると「字を書くときは、いい加減に書いてはいけません。」「1文字、1文字心を入れて書きなさい」と叱った。
だから、食べ物を粗末にしたり、「廃棄」を安易にすることが……いかにダメかわかると思う。農家の人が1年かけて、汗水流して、病気や害虫や災害から一生懸命、命がけで守って育てて実った、野菜やコメを……あなたはずいぶん粗末に扱っていないだろうか?
お金のためといって、キャベツや小松菜をトラクターで踏みつけてつぶす光景を見ると……何も言えなくなるね。
フードロスなんて、欧米人の悪い考えだ。自分たちはバイキング料理を推奨し、バカみたいに食べ物を捨てて、今さらなにさ?
日本人は古来から「食べ物は決して粗末に扱ってはならない」と厳しく家庭でも教育されてきた。あんなことはしなかった。
俺のこういう考え変か?
国際NGOでアフリカ・アジアの飢餓貧困問題を解決しようと活動していたとき、われわれ日本では当たり前のことが、アフリカやアジアではないのだ。
トイレ……なんて日本ではきれいな飲み水で便器を洗って、毎回水洗で汚物はないのが当たり前だよな。
でも、そんなトイレは世界60億人でどれだけの人たちが使えているか?少しでも海外旅行をした人なら……思い知るだろう。
ならば、トイレをきれいに使うことは、水を無駄にしないということになる。
でも、災害時にトイレは真っ先に汚されて、使い物にならない。
これも、自分たちの意識に「トイレの設備や、水に心や魂がない」と思っているからだ。
私は、日本のすごい超能力者の知り合いが何人もいるが、ひとりに武道「和良久(わらく)」の前田比良聖(ひらまさ)先生がいる。
この武道は、大本の出口王仁三郎が現代によみがえらせた「ことたま学」を基本にしている。われわれが何気なく発音している「あおうえい」の母音は、宇宙とつながるエネルギーを持っている音である。
誰でも発音できる。だが、その意味を知らなければ、物理学者がいう「ただの音波」である。
しかし、この音を腹式呼吸できちんと自分の体内で響かせるように発音すれば、たちまち宇宙空間に自分が接続されて強大なパワーが出る。
この「ことたま(言霊)」を先生はやられている。
けれど、私はある日、気づいたのだ。人間が発する「ことたま」もあるが、物や自然界が発する「おとたま」もあるはずだと。
以前、音大出身のピアノの先生と話していたとき、私が当時のプリンターを使って文書を印刷していた。すると
「あら、このプリンターの『カシャン、カシャン』という音、なんとかならないかしらね?」
と言った。
「機械ですから。」
私は何も考えずに言った。でも先生は
「でも、もしこのプリンターの『カシャン、カシャン』が、音楽的に聴いていて気持ちいいメロディや音の鳴り方になったらいいのになあ。いいと思いません?」
って言った。
私は衝撃を受けた。「そんな見方したことなかった」
工学者やエンジニアはマシンの動作音は「そういうものだ」「しかたない」と思い込んでいる。けれど、何も意味なさそうな機械やシステムが発する音を「メロディ」にしたら……また違う何かが得られるのか……と。
たしかに、自動車のドアの開閉音、工場のモーターの音……そういうものが発する音は「周りにウェーブとして影響を与えている」
現に、高速道路や幹線道路の脇に住んだら「低周波振動」で眠れなくなる。わかっている。
それは「ことたま」でなく「おとたま」なのだ。
だから、私は、前田先生の「ことたま」だけでなく「おとたま」も大事だと思っている。
すると、最初の茶道に戻ってくる。
茶道では、無駄な音を立てないようにしつけられる。なぜ?「おとたま」があるからだ。
部屋に入るとき、欧米みたいに「コノコン」ノックして「ギーっ」とは開けない。
そっと、手をあて「すーっ」とふすまを開ける。
茶碗や茶杓を取り扱う時は音をたてず、ひとつずつ、1プロセスずつ、ていねいに大事に行う。
「カチン」とか音を立てない。
もし、こういう「おとたま」の本質を学校教育や家庭の生活で取り入れたら、きっといい世界になると思う。
物を投げたり、粗末に扱う……今の社会はすごく多い。
でも、もし、物に心や魂が宿っていて、そのどれもの存在が「大事な存在」だと知り、自分の心や生き方を変えるだけで、今まで「無表情」「意志などない」と思っていた、家具や、食器、コンピューターのような機器であろうと……「こんにちは」って話しかけてくるようになる。
私は、表参道・原宿のハイセンスな都会に何年も住んでいた。けれど、今は毎日、田んぼと草原、透明な水が流れる川にいる。
都会にいたころの、便利さも、機器もない。
けれど、お金がなくても、不幸だと思わない。
朝、道端を歩くと、シロツメクサが足元に咲き乱れている。鮮やかな緑と白い花のコントラストで気持ちいい。別に花職人がいじったわけでもない。自然にあるだけだ。
ふと目をやると、小さな紫色の花が咲いている。花は「こんにちは、こんにちは」って言ってくる。
都会では害虫、害虫って嫌うが、目の前にはいつもカタツムリやナメクジがいる。植木鉢をどかすとダンゴムシが一斉に歩き出す。
木を見上げると「ピヨピヨ」って小鳥がさえずっている。
小さな水路からは、水が流れる音がずっと聞こえる。
雑草や野菜の葉には黄緑色のアマガエルが乗っている。
夜になると窓にヤモリが貼りついている。
水槽をみていると、ミナミヌマエビさんやメダカがファンタスティックに泳ぎ回っている。ペットショップで買ったものはない。水路にいる。
でも、そのどれもがかわいいし、観ていると幸せになる。
都会では……それがすべて「ムダ」「じゃま」扱いだ。
自然の花がいつも出迎える。私には「こんにちは」「こんにちは」って聞こえる。
いちど……そういう世界を知ってしまうと……東京はキチガイなんだ。と気づく。
神社に行くと、クスノキや巨木が立っている。手をあてると、木が話しかけてくる。
木は……何百年もこの景色、ここにいる人たちを見てきた。
木は優しい。自分は動けない。でも温かくそこに行きかう人たちを見守っている。
でも、「邪魔だ」「いらない」と言って、キミたちは切り倒すのだろう?
天野も麦島もブルドーザーで木を殺して行った。無造作に切り倒した木を下に投げ捨てた。
彼らには木の声が聞こえないのかな。
並んでいる人間に同じことをしたら、殺人だけど
並んでいる木を切り倒すのはいいんだ。
同じ命じゃないの?さっき言ったよね。「この世の中はすべてつながっている」
木と自分を分けている考えは……欧米人の植え付けた思想でしかなくて、思い込みだよ。
木もキミもつながっているのさ。知ったら、自分たちの一部を切り倒せるのか?
土も同じじゃないのか?
今飲んでいる水は川から。その川は沢、沢は山の谷に降る雨、雨は自分たちが吸っている空気……そのどれもが自分とつながっているよね。
川は海につながって、海は新たな水になり、水は雲になり、雲は雨になり雨は山に……
「みんな、つながってる」よね?違うかな?
そして、そのどこかを破壊すれば……全部破壊されていくよね。
それ、自覚していたら、法律で処罰されないからいいんだって……安易に木を切り倒したり、沢を埋めたり、産廃を入れたり……できないはずだよ。
でも、やっちゃうんだよな。何のため?お金?
お金って、人間が勝手につくった「概念」だよ。「勘違い」だよ。
別に自然も地球も、お金と関係なく動いている。
ネコもイヌも、ハムスターも、カピバラさんもお金はいらないよ。
人間の勝手な思い込みで、自然を敵にしたり、断絶したり、隔離したりして
でも、そういうあなたは、その自然の一部ですよね。
なぜ、あなた自身でもある自然と、環境を自ら破壊するの?
そんなに死にたがってどうするの?
自分とつながっているすべて……それが愛です。
愛に気づいたら、人間は楽になる。幸せになる。
難しいことはない、高額な自己啓発セミナーや、宗教に入らなくても。
今、この文章を読んで、手に触れ、観て、聴こえてくるすべてを見る、あなたの心のスクリーンのモードをちょっと変えるだけです。